Ghost Apple 1

「助けてって、言えよ。」
 薄暗いバスの中。呟く声は、獣の唸るような音に掻き消される。それでも、隣にいる人間ならば気が付くほどの音量のはずだ。にも関わらず、隣にいる"そいつ"は、欠片の反応も寄越さない。
「引っ張り出して、外に連れ出して、やるから。なあ、言って。」
 少年の声は、もうすぐ泣きそうな程に追い詰められている。それでも非情な、先ほどから聞こえる獣の唸るような音は鳴り止んでくれず、むしろ音を大きくさせるばかりだ。
「言ってよ、頼むから、言ってくれ」
 反応はない。段々と、少年の声までも小さくなっていく。最後くらい、反応してくれればいいのに。そんな文句は頭の中のまま、少年は意識を失った。







 肌を焼く夏の暑さは、ひかる箱が猛暑と報じて違和感ないものだとひしひしと思う。手にかかる段ボール箱の重みも加えて、こんな時期に引っ越すんじゃなかったなあ、という考えが湯水のように溢れてくるが、それは頭の中だけに留め、リビングへと足を踏み入れた。
 今日からここが自分の家。元々三人家族であった京太郎にとって狭く感じる室内であるが、住むのは自分一人。一人暮らしにしては広いと再三親に言われたが、初めての一人暮らしにとって良いものなのか悪いものなのか。私物の詰まった段ボール箱を広げ、お世辞にも良い人そうには見えない目つきをその箱の中にむけながら、自分を放り出した両親を思い返していた。
 8月下旬。夏休みに乗じて引っ越してきた京太郎は、まだ17歳。独り立ちにはまだ早い年齢なのだが、家庭の事情というもので両親とは別々に暮らすこととなってしまった。高校は転校、という形をとる。時期的には中途半端、とは言えないかもしれないが、それでも初の転校というものに少なからずの不安があった。元の場所とは遠く離れた土地に移り住むにあたって、当たり前のように人間関係はリセットされる。17年間築いてきたものが跡形もなく消え去るのと同義だ、と京太郎は考えていた。
 一人暮らし、ということになれば炊事洗濯家事を一人でこなしていかなければならないわけだが、元々放任主義だった両親の元、そのあたりはしっかりしている。むしろ自然と身に付いた。身に付けなければならなかった。重荷らしい重荷ではないが、やはり明確に両親と"別れる"にあたって衝撃、とまでは言わないが、それでも少なからずの寂しさはあったのだ。
 と、ぐじぐじ考えていても時というものは自然と経過していくもの。忙しい日々は早すぎるほどにするすると流れていって、部屋の片付けが昔のことのように新学期が始まっていた。常に見る側であった転校生の紹介も終わって、早速授業となる。褒められたことではないが頭のよろしくない京太郎の事、今までと進むスペースの違う授業は初日から投げることを苦渋の決断のように心に刻み込んだ。単に、授業内容のおかげで頭を抱えそうになっていただけなのだが。そんな初日から親しみやすそうとは程遠い表情ばかりで、好意的に話しかけてもらえると何故思ったのか。転校生への興味は遠巻きに、まるで隠すような話し声として現れることとなった。どこかでそんな空気が形成されてしまえば、その空気は広がっていく。背はどちらかと言えば高いほうで、目つきが悪く、そして常に不機嫌そう、というレッテルを貼られた男に、この空気の中近づいていく物好きはそうそういない。初めが肝心な学校で、早速孤立に持って行ってしまう…と、思われた。

「ねえ君、一人暮らしなんだって?」

 透き通るような声に、一瞬、反応が遅れる。
 寂しい残りの1年以上2年未満が思考を掠めたところで、目の前の席にいる男子生徒が声をかけてきたのだ。まさか自分に? この空気の中、勇気のある人間がいるもんだなぁ。少し呆けてしまって、首を傾げられる。余計なことを考える前に、返事をしなければ失礼だ。
「って、なんでそんなこと知ってんだ。」
 しかし、つい出た返事もやはり機嫌の悪そうなものになってしまった。早速触れられたくない話題を持ってこられたのだから仕方ないと思うのだけれど、初日からこれはいけない。ありありと出したやってしまった、という顔を受け取ったのか、目の前の男子生徒は、にこ、と笑って「あんまりよくない話題だったかな」と呟いた。高校生の一人暮らし、と言われれば、触れたくても触れてはならない話題の代表格ではないのだろうか。
「でも、みんな知ってるみたいだよ。転校生は一人暮らしだってさ。」
「だからなんで。」
「さぁー、僕は友達が話してたの聞いただけなんだけど。」
「そんなに広まってんのか…」
 げんなりした京太郎の顔には苦笑いを返される。遠巻きに見られるのも、目つきや不機嫌そうな顔だけではなく、一人暮らしの寂しい生活という印象が一人歩きしているせいもあるのか。いやなレッテルを貼られたものだ、と思いながら前の席で笑う男子生徒の顔を覗き見た。
 見た目だけであれば、京太郎とはどこもかしこも対照的だろうか。背は低く、線の細そうな体。それに加えて儚げな目。顔の造形は整っていると思うのだが、どこか印象に残りづらい。身を包む制服はブレザーで統一されているが、彼であれば学ランのほうが似合いそうなものだ。
「それで、どうして? 家庭の事情?」
「お前ずけずけ踏み込んでくるな。」
「お前じゃなくて、日暮、だよ。京太郎くん。」
「初っ端から下の名前か。気持ち悪いわ。」
「気持ち悪い、はないんじゃない? それで、どうなの?」
 先ほどまでは孤立した寂しい学校生活を考えていたわけだが、こうした直接的な興味のぶつけられ方はもっと嫌だったかもしれない。「噂だって一蹴しないあたり、ホントらしいね。」なんて軽く言う。普通、そこまで軽い問題ではないと思うものではないだろうか。
「………言う通り、家庭の事情だよ。」
 小さな声で、それこそ目の前にいる日暮に聞こえるか聞こえないかの音量で言う。
「まぁ、言う程重たいわけでもねぇんだけどさ。」
「重たいのに聞かれたくないの?」
「そーだよ。」
 だから聞くな。悪い目つきを更に尖らせて、日暮を見やる。
 実を言うと京太郎自身、心中は複雑なままなのだ。確かに両親と離れ離れになったことに関して、少なからずのショックはあったわけなのだが。しかし、元々放任主義な家庭だったのだ。両親のいる時間といない時間、記憶した限りでは、いない時間のほうが多かった。ただ、あの人たちが帰る家と、自分の家が完全に別れただけ。家にいる時間よりも暇を潰す喫茶店のほうがいる時間が長い人たちだったから、別れたことに何かを感じたとしても、寂しいという感情は全くない。
 そこで、"何故別れることになったのか"を聞かれれば。それは京太郎にもわからないのである。
 親元を離れて通学しつつ一人暮らし、ということになった当事者が理由を通されていないわけではない。しかしその通された理由というものが、すんなり飲めるものではなかったのだ。
『家借りたのはいいんだけど、仕事の都合でまた戻らなくちゃいけなくなってさ。勿体無いから入ってよ!手続き面倒だし!』
 いかにもごまかす気満々、と言った表情で言ってのけた母にため息をついてしまったのは仕方のないことだと思える。手続きが面倒だから、という理由で息子を放り出す形にするには無理なこじつけがあるだろう。放任主義でも親としてやってくれることはやってくれる人だったから。何か別の理由があるというのは目に見えていたのだ。しかし、ついぞその理由を聞けぬまま二人とは中々会えない立場になってしまうことになった。
 だから、事細かに説明しろと言われても、言えることは「手続き面倒だからって親から放置された」という一言のみなのだ。親としての責務は果たしてくれた親だ。…今となっては、果たしてくれていた、という表現のほうが合っているかもしれないが。それでも、過去のものとなっても、両親のことを悪く言う答えしか出せないものを聞かれるのはいやだった。
「でも重たい理由じゃないんだ。」
「重たくなかったらなんだよ。」
「いや、変に気を遣って接さなくてもいいんだなーって思ってさ。」
「変に気を遣って接さなくてもいいのかどうなのか、分かる前は慎重になるのが普通だろ。」
「どうせ何があったって僕より慎重にならなきゃいけない人間なんていないしね、君に何かあろうが、なかろうが、君以外の人間からの当たりはそう変わらない。」
「俺一人と関係がこじれようがどうしようがこれからは変わらねーってことか。」
「そういうこと。」
 ふふ、と肩を揺らして笑う日暮。綺麗な笑い方ではあるのだが、とても失礼なことを言っているような気がする。
「でも、変に気を遣う人じゃなくていいなら仲良くなりたいかな。面倒くさくないし。」
「面倒どうこうで人間関係選択すんのか。捻くれてんなー」
 俺の不機嫌を隠そうともしない呟きは、日暮には一切効いてくれない。慣れ親しんだ人間でも目つきの悪さでドキドキさせる俺の顔が効かないとは、中々やるな。そんなバカなことを考えていると、す、と目の前に手を出された。
「…何。」
「あくしゅ。これから仲良くしましょーねっていう。」
「あんだけ失礼なことかましてその言い分か。」
「転校生同士仲良くしようよ。」
「え、お前転校生なの。」
「うん、そう。中2の頃にさ…」
「ごめん、転校って言葉と中2の頃が繋がるとは思えねぇんだけど。」
「いやいや、田舎だと修学旅行とかなんだとかで小学校同士の繋がり強くてね? だから小中で入ってきてもどっか浮くんだよ。僕みたいにさ。」
 越してきたこの場所は没個性極まりない片田舎なわけだが、京太郎の元住んでいた場所も似たような田舎町であった。畑の代わりに山がある、印象が変わったと言えばその程度。そんな田舎出身だから、日暮の言いたいことは重く飲み込めた。
 そんな転校生同士、だからとは言わないが。差し出された日暮の右手に、自身の右手を重ねようとする。
「………っ」
「? どうかした?」
 そんな自分の手を見て、びし、と固まってしまった京太郎に、「握手してくれないの?」と小さな女の子のように首を傾げる。中性的なその顔でやられると、言葉を選びづらいが…映える、ものがある。
「んでもねー。」
 先ほどの行動や、小さくなってしまった『な』をごまかすように、日暮の右手を自身の右手で掴む。それから一つ、目を逸らし。
「…よろしくな、日暮。」
 よろしく、という文字を強調しながら、始まりの言葉を口にした。
「握手から始まる関係って、仕事以外でもあるんだね。」
「お前がやり始めたんだろう。」
 悪態の裏では、奇妙な関係になりそうだ、という考えが頭をよぎる。しかしそれは、あってもなくても変わらないような学校生活、とは遠く離れることになった合図だ。その合図には、不思議とマイナスな感情は表れてこなかった。


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