Ghost Apple 44

「でも、わかんないんです。どれくらい経ったとか、あれから何年とか、頭では分かっているはずなのに全然実感できなくて。誰かと会って、話して、その日は覚えてるんです。」
 不安げな顔で呟かれたその言葉は、すんなりと飲み込めるものだった。なんてったって、日暮雄介と出会い始めてからの俺の記憶はほぼ、日暮雄介と出会った時にまで削り取られていた。1週間と少しなんて、その内の最初の一週間は雄介と会い始める前、兄のほうの日暮と握手をして、土地を教えてもらっていた頃だ。それからは時が経ったと言葉で認識するのみで、日頃の生活なんてほとんど頭に残ってなかったから。今も多分、少しも残っていない。
 日常の出来事を事細かに頭に残すことはないだろうが、栄養失調になるまで食事をとっていないことに気づいていないあたり、これはとても異常なことだ。今までの生活の中でだって、食事をとり忘れる程の記憶障害があれば、何がなんでも親は自分を離したりはしなかったはず。
 多分きっと、"そういうもの"にできているんだろう。どこかで聞いた、神隠しに遭う人間は徐々におかしな行動を繰り返しえて行き、突然姿を消してから、二度と帰ってこない。そのおかしな行動とは、連続されない記憶からくるものだった。
 俺も、日常生活じゃよくわかんねぇこと言ってたりしたんだろうなぁ。全くもって記憶にないけど。
「………寂しかったんです。寂しかっただけなんですよ、僕。」
「うん。」
 口を開いた雄介に、素直に向き合う。ずっと座りっぱなしで腰も痛くなってきた。でも体勢を変えたりはできる限りしない。きっと、些細な動作も雄介の口を一時的にでも閉ざすことになってしまうだろうから。
 なんとも繊細な子供だ。いや、勝手にそうだろうなって思ってるだけなんだけど。
「気が付いたらここにいて、ここから出て行くこともできなくて、誰か来ないかなって、来てくれれば良いなって、それだけで。」
「…うん。」
「少しだけ話して、次も来てくれるって言われたら嬉しくて、境内掃除して待ってみたり、ちょっと時間気にしてみたりして。」
「そっか。」
「でも、そしたら。」
 そしたら。言うのを戸惑う様が見て取れる。それでもあふれ出した感情は制御が利かないのか、抑えようとする口を突破した言葉がぽろりと出された。
「兄さんの、楽しそうな声が、聞こえ、たんです。」
 また俯いてしまう雄介の声は、かすかに震えている。
「誰かと話している間は楽しかった。でも、兄さんの誰かと話す楽しそうな声が聞こえたら、寂しさなんかもう忘れるくらい、別の何かが僕をころそうとした。」
「殺されかけたのか。」
「だって、寂しかったんです。」






 袖引っ張ってここにいてって叫びたくても、その人には生活がある。死んだ人間の我が侭で振り回すわけにはいかない。そう思って離れようとしても、頭の中で皮肉るように聞こえる兄の楽しそうな笑い声。
 なんで自分の寂しさは埋まらない。
 なんで兄の生活は満たされている。
 なんで自分は笑えない。
 なんで兄は笑い合える人間が居る。

「そこで、思ったら、もうだめでした。」
「何を?」
 すう、と、息を吸う。大切に。気持ちを清浄な空気で包み込めるわけではないのに、何故だか整理をつけたいときは大きく息を吸い込みたがる。雄介が吸い込んだ息は、叫び声に変換されるわけでもなく、感情を腹の奥の奥へ突っ込むわけでもなく。

「"さっきまで話してたその人間も、お前と違って笑いあえる人間が他に居る。"」

 涙と共に静かな言葉に変換された。



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