Ghost Apple 7

「………昔は輝北ってところに住んでたんですけどね。」
「輝北?」
 何か思い出してはいけないものが思い出せそうなところで、重々しい日暮の声が耳に入る。輝北、輝北。
「ずっと昔ですけどね。訳あって引っ越して、きっともう僕らの家もないんでしょうけど。」
「輝北………」
 頭に引っかかるワードが、何度も何度もリフレインする。頭に手をあててみるが思い出せない。絶対に覚えがあるはずなのに、中々記憶の海から掴み取れないこのもどかしい感覚は誰にでもあることだろうが、その抜け落ちた部分がとてもとても大事なことだったような気がする。自然と頭に当てていた手が震えていることに、その手が睫毛にあたってからようやく気が付いた。
「京太郎くん?」
「輝北、どこだっけ」
「え?」
 自分の声が震えていることに、耳が入ってから初めて気づく。耳で確認したその震えを感じてから、喉が引きつる気持ち悪い感覚が京太郎を支配する。気持ち、悪い。
「なんだろ、思い出せそうで、でもなんか、あれ…」
「京太郎くん!」
 頭に当てていた手を思い切り引かれる。そこで、日暮の顔がまともに見られないことに気が付いた。歪んでいるのだ、視界が。偏頭痛…なんだろうが、そこまで頻繁に起こるほどでもなかった偏頭痛が、こうも酷く立て続けに起こるというのは何か悪い知らせでもあるのだろうか。だとしたらそのまま直接言ってくれればいいのに、とどこか別の方向へと向かっていく考えはどこか冷静で、しかし自身の腕を掴む日暮の表情等まるで汲み取れない。不安そうな顔をしているのか、それともまた別の顔をしているのか。普通であれば不安そうな、心配そうな顔をしていそうなものだが、いつも無表情な日暮が自分のために表情を変えてくれるとは京太郎には思えなかった。
「大丈夫ですか?」
「………うん」
 まるで浮遊しているような頭の感覚に髪を掻き毟って、平常を取り戻そうとする。どこか吐き気まで感じる不自然な頭痛のおかげで、とんでもなく薄っぺらな返事をしてしまった。大丈夫そうには聞こえない。
 しばらく頭に手を当てたままで過ごし、やっとこさ戻って来た視界に安心しつつ隣にいるはずの日暮へと視線を投げる。動いた気配もない日暮はやはりこちらを向いていたが、想像通りに無表情のまま、だった。
「………。」
「京太郎くん?」
「シュークリーム美味かった?」
 日暮の手にはもう残っていないシュークリームを確認してから、当たり触りないような話題を引っ張り出すように問う。「美味しくなかったら最後まで食べません」とふてぶてしく言う日暮の顔は短い間で知った日暮そのものだったが、その瞳にはどこかしら寂しげな感情が込められていた。
「…君、引っ越したてで疲れてるんでしょう。来てくれたのは嬉しいんですけど、あんまり無理するのはよくないですよ。」
「自覚はないんだけど。」
「自覚があろうがなかろうが疲れは溜まっていくものなんです。今日はもう、帰って休んだほうがいいですよ。」
「………。」
 そんなことを言いながら寂しげな瞳をされると、帰るなと言われている気分になる。ついさっき日暮が言った『常に神社にいる』という発言や、兄にすら会えないということを考えれば、16歳や17歳の少年が送るにはかくも寂しい生活をしていることになるだろう。学校にも仕事にも行っていない限り目の前にいる日暮の世界はこの神社だけになる。せっかく立ち入った同年代の人間なんか、もし日暮の立場が自分だったとすれば追い返したりなどしたくない。  おかしなものだ、会って二日の人間に考えることではないだろうに、何故か日暮の隣は心地よい。酷い頭痛に襲われても、少し飛んでいる発言にビックリさせられても、何故だか足が向くとき重く感じたりはしなかった。
「…また明日来てもいいか。」
「え?」
 その言葉は特に考えもしないで出て来たもの。本当に口をついて出た言葉に、日暮は目を丸くさせた。
「いいですけど、こんなところに用なんてあるんですか。」
「いや、別に用らしい用はねーけど。いいんだったらいいで俺はまた来るぞ。」
「………そうですか。」
 京太郎の頭にあるのは先ほどの寂しそうな日暮の瞳のみ。若干ぶっきらぼうに渡した言葉に恥ずかしくなり目をそらしてしまったが、その言葉を押し付けられた日暮には穏やかな笑みがあった。
「帰れなくなったら困るし、今日は帰る。」
「はい。気をつけて帰ってくださいね。」
「あぁ。」
 シュークリームのゴミをまとめてカバンに入れようとすれば、日暮の手がそれを奪い取って「片付けておきます」とだけ言い後ろ手に隠された。そう言ってくれるならありがたい限りで奪い返す気もないのだが、意思の固さが見て取れて珍しく柔らかに笑う。京太郎はその性格ゆえ、どこか眉間に皺を寄せた顔が印象に残る顔だ。短い間でもそれを受け取っていた日暮にとってその笑顔は忘れまいと思うに価することであった。
 京太郎は特に何を話すでもなくカバンを担いで階段のほうへと向かう。見送りとのことで階段のすぐ傍まで来てくれた日暮の瞳には、先ほどの寂しさは感じられなかった。
「またな、日暮。」
「はい。さようなら。」
 やる気無さげに右手を振るが、それは親愛の形。慣れない「ばいばい」にまたも日暮は薄く笑って。その表情に安心し、その日は家へと帰った。


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