Ghost Apple 8

「日暮。」
 日付が変わって、学校。プリントを回す際にのぞき見た日暮の顔は驚くほど表情が抜け落ちていて、弟のほうかと錯覚するほどの別人ぶりであった。確かにオーバーで嘘くさい喜怒哀楽の表現をするが、嘘くさいのと無いのは全くの別物。たとえどれだけ薄っぺらなものでも何を表したいかが本人から感じられないのは、ある意味とても怖いのだ。
 そう思い休み時間に呼びかけても、やはり無視。周りからは「喧嘩でもしたの〜?」と緩やかな声をかけられたのだが、京太郎に思い当たるものなど、
「………あ。」
 そういえば、と思ったところで日暮の姿はとっくにない。時間を見れば10分休憩が終わるまでもう少し。日暮が何を思っているのかは分からないが、もしあの根付を自分が持っていることでいやな気分にさせているなら少しは会話しておかなければならない。常に一人でいるらしい日暮弟のことも、考えて。
 急いで席を立ち傍にいた男子生徒に日暮の居場所を聞けば昇降口のすぐ傍にある水のみ場へと向かったと言われ、時間など気にせず向かう。1時間サボるくらいどうってこと、という考えの下の行動、なんて思いつつこんな考え方をすればするだけ後から後悔するんだろうなぁ、と急ぎ足の中考えながら昇降口へと降りていった。
 二年生の教室が並ぶ三階から降りて、実習室や職員室が並ぶ一階にある昇降口へと走る。合併寸前の小さな高校は、大事な場所を覚えるにも苦労しなかったし、分からなくなっても近場にある地図を見れば迷うことはない。記憶してある道をどんどん進んで、昇降口の横にある水飲み場にたどり着いた。
 基本正門から通うのが常らしい昇降口から、更に向こうにある水飲み場は正直存在に気づきにくい。誰かに言われでもしなければわからなかっただろうし、実際京太郎も日暮に教えてもらえなければしばらくの間知らなかったままであろう。そんな場所に、何を思って日暮は佇んでいたのか。手をついて、蛇口から流れる水を虚ろに眺める日暮の表情からは、いまいちどんな意図なのかうかがい知れない。喜怒哀楽のどれかで言えば、怒と哀に限りなく近いものであることだけはわかったが。
「………日暮。」
 本日何度目の呼びかけか。誰が来るとは思わなかったのだろう、驚いたようにこちらを振り向いて、それから置いていた手を悔しげに握った。
「何か用?」
「………。」
 久しぶりに返された声は、酷く冷たい。関わりたくない意思が見て取れる一言に怯んだ顔を見せながら、京太郎はポケットに捻じ込んでいた携帯電話を手にした。
「お前、これに見覚えあるんだろ。」
 揺れる青い根付が京太郎の、そして日暮の前に出される。根付越しに見える日暮の顔は、けして良いものではない。おかまいなしとは言わないが、そんな顔をされても、という思いのままに眉間に皺を寄せる日暮に向かい言葉を続けた。
「むしろ覚えくらいはあるだろ。17年間弟が大事に持ってたモン、兄貴が知らねぇこたないよな。」
「………!」
 息を呑む日暮の顔から血色が失せる。流れ出る水を勿体無いと思いつつまたも携帯電話をポケットに捻じ込み日暮のほうへ一歩近づけば、小動物が警戒するように向こうもまた一歩下った。先日までの関係とは大違いなものだ。
「なぁ、お前ら何が」
 ごく自然に口にした言葉に、日暮はびっくりしたように目を丸くする。感情の抜けたままそうされる表情は、とても怖い。しかし、そんな怖いという感情が脳に到達する前に、京太郎を襲ったのは、しりもちをつく程の"衝撃"だった。
「っ!!」
 唐突の出来事に状況が飲み込めないまま、頭数個分高い日暮の顔を見上げれば、そこには先ほどと打って変わって悔しそうで泣きそうな、そして、いくばくかの憎悪が込められた表情。掲げた右手を見る限り、日暮に殴られたことになるのだろう。じわじわと、痛みが襲ってくる。遠くにはチャイムの音が聞こえたが、頭の中はそれどころではなかった。
「日暮………?」
 京太郎の喉から擦り出た乾いた声は誰が聞いても情けないもの。こう何度も日暮の前に情けない姿を晒すとは、と思うが、自分が真っ先に思い浮かべた情けない姿の前に立っていた日暮は弟のほうだ。全く同じ顔に記憶がぐちゃぐちゃになるようで、それでも整理はつけられるくらいには混ぜ込まれていない。不思議な記憶の混濁に触れたいようで触れたくない気持ちになりながら、歯軋りしこちらを睨む日暮を呆然と見つめ返した。
「おふざけは程ほどにしないと、痛い目見るよ。」
 もう痛い目にあってんぞ、という声は出てこない。震える日暮の声に、そんな返事はできない。痛みのひかない左頬に手をあてつつ、立ち去る日暮の後姿を見た。
 ………が、日暮は立ち止まる。背中と共に見える握り締めた右拳が、日暮はどんな表情をしているのかを鮮明に考えさせてくれた。そんな顔を見せたくないのか、俯きこちらに体を向ける。
「ひ、ぐれ。」
 痛みにより上手く動かない口内に今更気づいて、名を呼ぶ以外のことが出来ない唇を恨めしく思いながら立ち上がる。そんな京太郎に何を思ったのか、日暮は拳を作って京太郎に叩き込んだ右の手を自分のズボンのポケットへと突き入れた。その中から、りん、という音が聞こえる。
 悔しそうに歯軋りをした日暮の表情は、俯いていたため京太郎からはうかがい知れなかったが。それでも、今にも殴りかかりそうな顔をしていることは京太郎にだってわかった。だからこそ、何の言葉も発せなかった。
 そんな京太郎に何を思ったのか、日暮はポケットから取り出したものを、乱暴に投げて寄越す。
「日暮?」
 受け取ろうとして出た右手に弾かれたソレは、またも「りん」という涼しげな音を鳴らす。騒がしく地面へと落ちたのは、赤色の根付、だった。何かを確認できれば、取りに行かないわけにはいかない。拾い上げてみれば確かに、日暮弟から貰った青い根付と全く同じ、色違いのものだった。
「これ、」
 どういう意味だよ、と問おうと顔を上げれば、走り去る日暮の背中が見えた。今度こそ、立ち止まったりはしない。とうに始まった授業のことを思いながら、本心はもっともっと大切で心の締まる気持ちを考えながら、鈴の鳴る根付をポケットへと突き入れた。先ほどの、日暮のように。


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